川之江城

kawanoe-castle

南北朝動乱のころ(約650年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337年)鷲尾山に川之江城を築いた。興国3年(1342年)北朝方、細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。義昌は出城の畠山城主由良吉里とともに防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死をしている。

細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572年)阿波の三好長治が攻め入ったが撃退している。土佐の長曾我部氏の四国平定の力に抗えなかった友春は河野氏に背いて長曾我部に通じた。怒った河野氏は河上但馬守勝に命じて城を攻め取らせた。天正7年(1579年)前後のことと思われる。河上但馬守安勝は轟城の大西備中守と戦い打たれたという話も残っているが天正10年(1582年)長曾我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時姫ケ獄より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国の平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江が地理的に重要な位置にあったための悲劇ともいえる。戦国の世も終わった寛永13年(1636年)一柳直家が川之江藩28600石の領主になり城主に城を築こうとしたが、寛永19年(1642年)病没。領主は没収されて幕領となり明治に至ったためわずか6年「うたかたの川之江藩」で終わった。その後年月を経て城跡は、本丸付近の石垣にわずかに名残りをとどめるに過ぎなかったが、川之江市施行30周年記念事業として城の再建がなされました。涼櫓・櫓門・隅櫓・控塀も順次完成し、園路広場の面整備の官完了をもって昭和63年3月31日城山公園整備事業はすべて完了した。